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Trance-for-Beginners




はじめてのトランス (その4)
●ゴア/サイケデリック・トランスをめぐる思想性



 さて、以上のように「トランス」の“音”の特徴と“場”の雰囲気をざざざっと記述してきたのだけれど、いかようにしてこうしたムーヴメントが、まさにこの20世紀末の90年代に入って世界的なスケールで勃発/浸透してきたか……それを解明するには冒頭で触れたように、それ相応の社会背景なり時代精神なるものの文脈を辿ってみる必要があるのだけれど、残りの紙幅が激減してきた。大まかにアウトラインと問題提起だけ記しておくことにしよう。
 まずひとつにはレイヴという集会性/場のもんだいがある。イギリスでは10年近い歴史をもつこの野外パーティー文化だが、幾多の規制も手伝って同国ではとうにピークを過ぎたという感もいなめないが、そもそも野外で無償のイベントを開くといった試みは、60年代対抗文化華やかなりし頃のフリースペース〜フリーコンサートにその起源をもつともいえる。
 基本的にゴアトランスの音はこうしたoutside partyを前提に作られているといっても過言ではないので、自宅の部屋でリスニングするにはちとキツい=クドいところがある。歌や楽器のソロ演奏がないぶん、ヘヴィメタやハードコアよりも“ハードな”音楽体験とすらいえるくらいだ。しかもこれはある程度のスケールのサウンドシステムによって、大音響でビートを全身に音を浴びるようにして体験するのが一番なのだが、それでもクラブのような屋内=密室だと低音が存外ヌケないため、長時間聴いているといささか疲弊することすらある。このように総合していくとゴアトラは今のところ、野外に最もフィットした音響だ、といえるし、野外でない場所での聴取印象だけで判断していただきたくないというのは、そういう側面ゆえである。
 そして次にダンスという行為のもんだい、だ。トランスを頂点とした現在のテクノ系ダンス・ミュージックにおける聴衆のダンスには、過去にあった……例えばバレエや体操のような厳密に規定された身振りを反復し“修得”し再現するといったディサイプルなモードはみじんもない。要するに各自が自分勝手に自分の好きなよう/一番気持ちいいように踊ることが要求/許可されているのである。したがってこれは、かつてのソウル風ディスコダンスとも、にわかブレイクダンサーによるダンス甲子園や、はてはジュリアナのお立ち台ギャルのパラパラ踊りとも意趣の異なる“身体動作”であり、同時に徹底的に“無駄/無意味な行為”といっても言いすぎではない。そしてもちろん、徹底的に意味のない行為に没入することで、意味性に縛られきった日常から“彼岸”へと跳躍することが可能になる、ともいえるのだが。
 せっかく当VOID誌でゴアトラのことを好きなだけ書かせていただいているのだから、視覚的/ヴィジュアル的なもんだいにも触れておこう。トランスではとりわけジャケットからフライヤー、会場装飾に服のプリント柄まで、仏教あるいはヒンドゥー教等々の東洋宗教的イコンがデカデカと採用されるケースがまま多く、ニューエイジ的意趣からみてもさもありなんといえるのだが、これはひとえに西欧人にとっての(トランス時における)エキゾチカ効果……と単純に解釈できないこともない。ただ、われわれのような東洋人にしても、あるモードに“ハマった”人間にとって、そうした俗流の宗教画、あるいは大自然を写した風景写真などが、たまらなく崇高かつ深遠なものとして目に映ることが、ままある。ゴアトラの音もそうだが、そもそもあれらの(ひとつ間違えばキッチュとも受け取られかねない)グラフィックやデザインに「トランス」が固執していることは、外野からみればとんでもなく“ダサい”“クサい”、チャイルディッシュな価値観(まぁそのとおり/笑)でしかないのだが、その必然性もまた、あるモードに“ハマらない”ことにはなんとも実感できないことなのだ。「トランス」してみてはじめて、あの造形の“ありがたみ”がわかる……と。
 野外というロケーション、キッチュなデコレーションやサウンドエフェクト、聴衆のトライバルな格好などがあいまって、トランスのパーティからは一種独特の恍惚感/自然や大地との一体感/地球的規模での気づき/宇宙的存在とのコンタクト……などなどを連想したり意識したりすることも、ままある(こと会場が野外だと、これがパワースポットや霊山、はては満月時などにわざわざ開催することも手伝って、例えばUFOを見たとか……その手の怪報告も過去に珍しくはない)。しかしこういうことを書き連ね強調すると、やっぱり「ニューエイジかぶれか?」と疑われるのが世の常。まあたしかに“宇宙人が…”とか云われては無理もないのだが(苦笑)。
 たしかにゴアの場には、そこかしこにニューエイジ/エコロジー/テクノ・シャーマニズム的な意匠があふれかえっており、実際それに携わっているスタッフ/アーティスト/オーディエンスの中にも、そういう思想なり世界観に共鳴/賛同を示すものも少なくない。ただ確認しておきたいのは、一歩間違えれば新興宗教の集会とも受け取られかねないトランス・パーティをそうさせずにとどめているのは、ある特定のスタイルに固執しない/意味性を第一に追及しない……よくいえば柔軟な/悪くいえばルーズな取り決めに負っているから、といえる。要は参加メンバーをまるごと束ねるだけの大文字のテーゼなりイデオローグが、ここには希薄なのである。何はともあれ好きな連中と集い、好きな格好をして、好きな音楽を聴きながら、好きなように踊る……と。これは冒頭でのべた「「トランス」とは、ある種の主義や信条にも似通った性格がある」という解説と矛盾するようだが、要するに経験主義的にしか記述しえないものの、そこでの経験を成立せしめる諸要素は、意外とイデオロギッシュでもドグマ的でもなく、“楽しければなんでもあり”……と考えてはいただけないか?
 とはいえパーティにおけるDJの役割などには、いわば聴衆を束ね、導いていくシャーマン的な側面も多大にあるわけで、徹底的に無方位的な場だということでもないし、全ての参加者にとって“好き放題”が許されるわけでもない。しかしこの今日のがんじがらめの管理社会において、ある種の“ゆるい”結束によって繋がった嗜好が、それもヨーロッパから環大平用圏諸国に同時発生しているという現実は、旧来的な民族や国家やイデオローグによるボーダーをなし崩す、今日的/将来的なトライバリズム(部族主義)のサンプルケースとしても、なかなか興味深いという指摘もある。
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